R.S.
グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
私は、2023年7月17日から8月13日にかけてインドネシアの首都ジャカルタ、ボゴールに滞在し現地フィールドワークを実施した。
本フィールドワークは、ジャカルタの北部地域(以下、北ジャカルタ)における水へのアクセスをめぐる問題と地盤沈下問題を環境社会学的な聞き取り調査の手法を用いて明らかにすることが目的である。また本フィールドワークは、修士論文執筆に向けた研究の本調査として位置づけ実施した。
ジャカルタでは、人口集中・都市化の結果、地下水の過剰揚水を一因とする地盤沈下が問題化しつつある。とくに北部の低地では、工場、大規模商業施設、宿泊施設での多量な地下水揚水を主要因とする地盤沈下の傾向が著しく、世界にも稀に見る頻度に達している。地盤沈下の要因として、同都市における上水道インフラの整備が遅れていることが挙げられ、上水道普及率は約65%程度に留まっているとされる。
そこで、本フィールドワークでは北ジャカルタの北部沿岸部と北東部を研究地域として定め、地域住民に対し聞き取り調査を実施した。
本フィールドワークは、主に地域住民への聞き取り調査、文献収集、専門家への聞き取りを実施した。
聞き取り調査は、北ジャカルタの北部沿岸部の地区Ⅰ、北東部の地区Ⅱ・地区Ⅲの計3地区にて実施した。紙幅の都合上、本報告書では地区Ⅰ、地区Ⅱについて取り上げる。
地区Ⅰは、主にジャカルタコタ駅より北部に所在し、従来からジャカルタの中心的な漁村として栄えてきた。低所得者層が多く居住する地域であり、沿岸部には漁港のほか、水産物加工工場や工場地帯が広がる。また大規模商業施設やリゾート施設がほど近くに隣接し、地盤沈下が同都市内でもとくに深刻とされる地区の1つである。
地区Ⅱは、北方にジャカルタの主要貿易港や石油港が所在し、南方に高級住宅街や大型商業施設が隣接する地区である。同都市中心部に通勤・通学する中間層が多く居住している。
聞き取り内容は、主に①水へのアクセス、上水道について②地盤沈下問題についてである。
地区Ⅰに住むA氏(60代女性、ワルン(warung 日用品等販売)を経営)は、「Asin(塩辛い)から」飲料水以外は全て水道水(Air Pam)を使用していると話した。また、A氏自身が幼少期から井戸水(air tanah)を使用しておらず、現在、近所で井戸水を使用している家庭はないと話した。同じく地区Ⅰに居住するB氏(50代男性 町工場勤務)は、A氏と同様井戸水は使用できず、皿洗いや入浴など全てに水道水を使用していると語った。B氏の自宅近辺は1997年頃に上水道が敷設されたが、それ以前は水屋(水道水をタンクに入れ売る職人Tukang air kelilingまたはtukang air gerobakと呼ぶ)から水(gerobak air; 水道水をタンクに入れ配達された水)を購入することで水を使用していた。現在の水道料金はジャカルタ政府より補助金が出ているため比較的安価であるが、昨今のエネルギー価格高騰による電気代の値上がりに苦慮していた。
インドネシアの水道は、一般的に水圧が弱くモーター(住民らは専らsanyoと呼ぶ)を用いてタンクへ貯水し、水道水を利用する際に再度別のモーターを使用してタンクから給水する。モーター、タンク等の設備と電力がなくては上水道を利用することができない。
地区Ⅱに住むC氏(50代男性、菓子販売屋台(kaki lima カキリマ)が主な生業で、朝晩はライドシェアバイクの運転手として働く。西ジャワ州(バンドゥン市近郊)出身、子供3人)の自宅は、通り(jalan)から20m程度入り組んだ路地(gang)にある。C氏の自宅にある浅井戸は、塩害被害が生じておらず、現在も洗濯や入浴に使用していた。通りから入り組んだ場所にあるため自宅に水道管が敷設されておらず、水道水は利用できない。料理や皿洗いには、井戸水より水質のよい水屋から購入した水を利用していた。
水屋から購入した水は、水屋が水道水を配達したものであるため水道水より割高である。しかし、水道水を使うには水道管を自費で敷設する必要があり、高額な上水道インフラを整備できずにいる実情を淡々と語った。
一方、地区Ⅱに住むD氏(20代男性、大学卒業後イラスト関係の仕事に就く。中部ジャワ州出身で、コス(kos)と呼ばれる安価な賃貸に一人暮らし)は水道を利用していた。他居住者と同一のタンクを通して水を利用するシステムであるため、水道料金は定額とのことであった。ポンプやタンク等の上水道利用に必要な設備がない安価な賃貸物件に住む場合、水道を利用できず、水屋から水を購入しなければならないことを私に教えてくれた。


地盤沈下問題について、B氏は勿論知っていた。B氏によると、地区Ⅰは洪水対策で10数年前に公共工事を実施し50~100cm嵩上げされていた。しかし、同地区内のより海岸に近い地域のモスクは既に海に沈んでおり、「ここも後20年もすれば沈んでいるだろう。」と語った。
C氏は地盤沈下問題について「知っているが、(原因やメカニズム等は)理解していない。」と話した。自宅の井戸が有塩化し、使用できなくなった際にはどうするか質問すると、「分からないが、水(gerobak air)をもっと買うと思う。」と答えた。将来については深く考えている様子はなく、「分からない。安全なところに引っ越したいが、費用がない。未来は神のみがしることだ。もしかしたら故郷(バンドゥン市近郊)に帰るかもね。」と答えたのが印象的だった。インフォーマルセクターとして働く彼にとって、生活費をどう稼ぐかがより重要であるからだ。
D氏はジャカルタの出身ではないからか、地盤沈下によりもし住むことができなくなったとしても安全なところに引っ越すだけだと話した。


インドネシア国立図書館、ジャカルタ特別州公共図書館、大型書店を訪問し、資料や文献の収集を実施した。
本調査では、専門家への聞き取りとして国立研究革新庁(BRIN:Badan Riset dan Inovasi Nasional)主任研究員であるNawawi Asmat氏にお話を伺った。
北ジャカルタの一部地域は住民が数十年前から政府や自治体の許可なく勝手に住み始め、現在も無許可で居住しているケースが少なくないという。こうした経緯があるため、地盤沈下・洪水による被害やその対策として安全な地域に移住する必要性が生じても、十分な補償を受けられない可能性は高い。条例による地下水の揚水規制も中央ジャカルタの一部地域などほんの一部のみに限られているのが現状だ。とくに工業用水の揚水規制や住民補償に関する法律・条例に大きな問題がある。
また、ジャカルタはインドネシアの他地域より移住した住民が多く居住しており、地域への愛着がない住民が少なくないことも住民主体の運動が萌芽しにくい一因として推察される。くわえて、南ジャカルタは良質な地下水が豊富にあり、井戸水を主な生活用水としている家庭も少なくないとのことであった。
本調査を経て、ジャカルタの水へのアクセスは地域ごとに大きな差があることが分かった。良質な井戸水を使用できる地域は上水道を使用する必要がなく、北ジャカルタのような上水道の需要が高い地域と比較しギャップが生じていた。同都市内において安全な水へのアクセスのしやすさと住民の金銭的負担は地区ごと差異が大きく、これらが網羅的な上水道インフラの建設や上水道普及を阻んでいるのではないかという考えに至った。水道の水圧が弱いためにモーターやタンク等の設備がないと水供給が難しいなど、技術的問題や事業安定性の欠陥が散見されることも確認できた。
ジャカルタの都市開発により地盤沈下や洪水被害が生じているものの、地域住民への公的補償が十分でないことも分かった。地盤沈下の理解度については個人差が大きく、学歴や所得が影響していると推察される。同都市では工業用・商業用の地下水揚水に関する規制や罰則が緩く、現在の条例や法律での抜本的な対策は不十分であると再認識できた。
本調査では上述した知見を得られた反面、以下のような反省点も挙げられる。現地で体調を崩し、一週間程度の療養を強いられたことだ。そのため、予定していた他地域への訪問や一部の地域住民へのインタビューが中止となった。日本と異なる気候や風土で生活しながら調査を行うことは、フィールドワークの醍醐味の一つである。しかし、普段と異なる生活スタイルとなるため、体調管理には一層留意する必要がある。また、地盤沈下対策や地下水揚水関連の法律や条例に関する知識が不足していたため、十分に理解するには及ばなかった。環境問題に対する地域住民による運動や現地NGO 団体の活動ついての事前リサーチ不足についても反省している。
本フィールドワークで得られた知見や気付きを踏まえ、今後は地域住民による草の根レベルの活動等にも注目し、研究に励んでいきたい。
本調査は、2023年度フィールドワーク・サポートの助成を受けた。記してここに謝意を表する。
(2023年度フィールドワーク・サポート 現地レポート)