グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
PIAO YONGJIN
本調査は、2024年8月14日から19日にかけて中国遼寧省大連市で実施し、旅順の関東高等裁判所旧址の記念館化過程を中心に調査した。安重根が伊藤博文を暗殺し、その後裁かれた場所として象徴的なこの建物は、戦後長く放置されていたが、2000年代以降、韓国民間団体と現地朝鮮族の働きかけにより保存・再生が進み、現在は記念館として公開されている。展示や来館者の反応を通じ、「記憶の場」としての再構築過程を考察した。

調査対象は大連市全域、とくに旅順口区と大連経済技術開発区である。旅順では関東高等裁判所旧址と旅順監獄、大連市内では博物館などを訪問し、都市史と記憶の継承を確認した。調査方法は、①参与観察、②半構造化インタビュー、③文献・資料調査の三本柱で行った。
3.1 大連経済技術開発区・金州区の観察
調査初日は、大連大学の劉秉虎教授から開発区形成の経緯について聞き取りを行った。教授によれば、1980年代後半以降の改革開放政策により外国資本、とくに日本企業の進出が進み、「技術と管理の日本モデル」が地域発展の基盤を築いたという。現地では、看板に中国語・韓国語・日本語の三言語が併記されており、大連の多文化的性格と日中韓交流の歴史的痕跡が確認できた。

また、金州博物館では、外資導入による産業構造の変化や都市開発の過程が写真資料とともに展示されていた。これらの観察から、開発区は経済発展の場であると同時に、国際関係と歴史記憶が交錯する象徴的空間であることが明らかになった。

3.2 旅順口区・関東高等裁判所旧址の見学
旅順口区では、主に関東高等裁判所旧址を中心に見学を行った。裁判所跡に到着すると、昨年より入場料が15元から30元に値上がりしており、観光施設としての整備が進んでいることがうかがえた。展示は、関東都督府設置から安重根の裁判・処刑に至るまでを時系列で紹介し、史料や模型を通して日本の植民地司法の実態を再現していた。

展示は関東都督府の設置から安重根の裁判・処刑までを時系列で紹介し、日本の植民地司法の実態を史料や模型を通して再現していた。特に韓国人観光客の反応が印象的で、映画『ハルビン』をきっかけに訪れた韓国人大学生は「韓国以外でここまで丁寧に紹介しているのは驚き」と語った。韓国語で案内を行う漢族ガイドの存在からも、言語的配慮が歴史認識の橋渡しとして機能していることがうかがえた。

また、韓国人母娘と朝鮮族の夫による三人家族とも交流した。彼らは「大連といえば安重根の地であり、一度訪れたかった」と語り、静かに展示を見学していた。その姿勢から、単なる観光ではなく歴史を体感しようとする真摯な態度が感じられた。
3.3 大連市内・大連博物館の見学

最後に訪れた大連博物館では、近代以降の都市発展と植民地支配の歴史が中心に紹介されていた。特に印象的だったのは「満鉄と都市計画」の展示室で、鉄道建設とともに整備された上下水道や学校、公園などの都市インフラが模型や写真で示され、日本統治期の「近代化」と「植民地支配」の両面が視覚的に伝えられていた。展示は政治的に偏らず、「近代化の恩恵」と「支配の痛み」の双方を意識した中立的な構成となっていた。

また、大連がロシア・日本・中国という三つの時代を経て、多層的な都市アイデンティティを形成してきたことも明確に示されていた。館内には家族連れも多く、子どもたちが熱心に見学しており、地域の歴史教育や記憶継承の場としての役割も感じられた。
4.1 大連・旅順の形成と植民地都市構造
4.1.1 ロシアによる租借期
1898年、ロシアは清国から遼東半島南部を25年間租借し、軍港ポート・アルツァー(旅順)と商港ダルニー(大連)を建設した。鉄道・港湾・行政機構の整備が進められ、極東における軍事・貿易の拠点として発展したが、都市中心部はロシア人入植者によって占められ、現地住民は周辺部に居住を制限されるなど、明確な植民地的空間構造が築かれた。
4.1.2 日本による統治期
1905年のポーツマス条約で日本は遼東半島の租借権と満鉄の経営権を得て、大連・旅順を関東州として統治した。満鉄は鉄道運営だけでなく都市整備にも関与し、インフラを整えたことで、大連は日本の植民地近代化を象徴する都市として発展した。
また、宗教・教育・司法制度も統治装置として整備され、1906年には旅順に関東高等裁判所が設置された。ここでは日本の法制度に基づく裁判が行われたが、実際には治安維持を目的とした政治的司法であり、被収容者の精神的教化を重視する「教诲師」制度が導入されていた(王&姜、2000, p.112)。安重根事件はこの植民地的司法体制を象徴する事例であり、彼の裁判・収監の過程を通して、植民地支配システムの全体像が浮かび上がる。さらに、李(2016)が指摘するように、当時の教诲師が安重根の遺墨を保存したという史実は、国家的支配構造の中にも個人的な文化的行為が存在し得たことを示しており、この事件の記憶が単なる政治史を超えて文化的層を持つことを物語っている。
4.1.3 中国への返還後の再編
1945年の日本敗戦後、関東州は中国へ返還されたが、両市は一時ソ連の管理下に置かれた。その後1955年にソ連軍が撤退し、中国政府の完全な管轄下に入ると、大連は重工業都市として発展し、旅順は軍事都市として再構築された。日本統治期の建築物の多くは、軍政機関や兵舎・倉庫として再利用されていた(江・赵・常、2022)。このように、植民地期の物的遺産は社会主義的再建の中でも再活用され、都市空間には二重の歴史層が形成された。
改革開放以降、大連は外資導入が進み、旧満鉄附属地の中心部では再開発が活発化した。特に日本・韓国をはじめとする外資企業が進出し、港湾・電子・繊維産業を軸に「東北アジア経済圏」の結節点としての性格を強めていった(孔、2018)。1990年代後半から2000年代初頭にかけては、大連市長・薄熙来のもとで都市景観整備と観光振興が進み、旅順地域の歴史遺産の「記憶資源化」が大きく進展した(苏梅、2001)。関東都督府跡や旅順監獄旧址などは観光地として再整備され、愛国主義教育と観光経済を結合する象徴的空間へと再編された。
大連・旅順の再編は、植民地的近代性を社会主義やグローバル資本主義、愛国主義教育といった多様な文脈で再構築する文化的プロセスであった。現在の都市空間には、ロシア・日本・中国の記憶が重なり合い、「帝国の遺産」と「国家の記憶」が共存している。
4.2 関東高等裁判所旧址の記念館化の過程と支援構造
関東高等裁判所旧址が今日の記念館として再生した背景には、改革開放期以降の国際的環境変化、韓国民間団体の越境的な働きかけ、そして中国国内の学術的・行政的支援が重なり合う多層的構造がある。以下では、その形成過程を簡潔に整理する。
4.2.1 「院中院」から「記憶の場」へ
戦後、関東高等裁判所は廃止され、建物は放置されたが、のちに旅順口区人民医院の事務室や倉庫として転用され、「院中院」という特異な空間となった。劉秉虎教授によれば、この時期の旧址は植民地支配の象徴性を失い、地域の日常に埋没していたという。1990年代末、東アジアの交流が活発化する中で、韓国の旅順殉国先烈記念財団が旧址を再発見し、保存計画を提案した。しかし、同財団が統一教会と関係していたため、中国政府は宗教的・政治的影響を懸念し、単独運営を認めなかった。この経緯は、歴史遺産の保存が政治的・宗教的要素によって左右される現実を示している。
4.2.2 学術的媒介と制度的定着
韓国側の直接関与が難航する中、大連大学の劉秉虎教授が主導して保存活動を宗教運動から切り離し、文化遺産保護として再定義した。この「本土化」の方針により、国際的摩擦が緩和され、地域社会への定着が進んだ。1999年には、劉教授の仲介で韓国・中国双方の団体が出資し、「大連平和旅游観光有限公司」が設立された。2001年に建物の使用権を取得、2002年に「大連市重点保護建築」として登録され、保存が制度的に確立された。
2003〜2005年の修復を経て、2006年に「旅順日本関東法院旧址陳列館」として開館し、2014年には省級文物保護単位に格上げされた。こうした経緯から、関東高等裁判所旧址の記念館化は、韓国の民間団体による越境的記憶の喚起と、中国側研究者による学術的媒介が結びついた協働的記憶形成の成果であると言える。
4.3 記念館の運営と維持の実態
4.3.1 記念館の構築:多言語表象と人的資源をめぐる協働
記念館では、中国語・日本語・韓国語・英語の四言語による展示解説が設けられ、植民地支配から独立運動、現代中国の文化遺産管理まで、複層的な歴史を提示している。中国語解説は愛国主義教育の方針に基づく一方、韓国語版は大連大学の劉秉虎教授と韓国旅順殉国記念財団の協働で作成され、越境的連携の成果となっている。
職員3名のうち2名が韓国語対応を担い、館長の鄭春梅氏は旧址が廃墟だった時代から運営を支えてきた中心人物である。彼女の「訪問者の感動が原動力」という言葉に象徴されるように、個人の情熱が運営の基盤を成している。さらに、韓国独立記念館の協力により職員は韓国語研修や解説士教育を受け、専門性を向上させてきた。こうした国際的な協働と人的努力の積み重ねが、記念館を支える持続的基盤となっている。
4.3.2 記念館の構築:経済的基盤と運営
記念館は当初、合資会社「大連平和旅游観光有限公司」の資本金を基に運営されたが、来館者の少なさや旅順地域での文化施設への公的支援の偏り、協力団体の資金難により経営は不安定であった。2009年以降、地方政府の要請で国有企業が寄付を行い、韓国独立記念館など韓国側組織の物資協力も加わり、運営は徐々に安定化した。コロナ禍後の観光回復と韓国人へのビザ免除措置を契機に来館者が増加し、現在は入場料と物販収入によって自立的な運営が可能となっている。こうした過程を通じ、記念館は①合資会社の制度的枠組み、②国有企業の支援、③韓国側の協力、④観光市場の収益、という四層構造で成り立っている。国家的支援が乏しい中でも、民間の努力と国際協力を通じて記憶を維持する「民間型記憶の場」として機能している点に意義がある。
本調査を通じて、関東高等裁判所旧址の記念館化は、単なる史跡保存ではなく、国際関係や地域社会、個人の情熱が交錯する中で記憶の意味が再交渉される動的なプロセスであることが明らかになった。「記念館化」とは、過去の痕跡が現代の文脈で再発見され、政治的・学術的に翻訳され、制度化・観光化されていく社会的過程を指す。韓国側の追悼の論理と中国側の文化財管理の枠組みは衝突と調整を繰り返し、学術的媒介者の働きによって定着した。記念館は国家補助ではなく観光収入や民間支援によって維持されており、過去と現在、国家と市民が交差する「生きた記憶の場」として機能している。
本調査では、関東高等裁判所旧址の記念館化と運営実態について重要な知見を得たが、今後は研究の焦点を裁判所に置いた理由を明確にする必要がある。そのためには、安重根が収監されていた旅順監獄との関係を文献的に検討することが求められる。また、日中韓における安重根像を比較し、関東高等裁判所の展示がどの国の叙述に近いのか、あるいは独自の記憶像を形成しているのかを分析することが今後の課題である。