グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
PIAO YONGJIN
本調査は、中国遼寧省大連市を対象に、特に同市の旅順口区を中心として、2024年8月17日から8月24日までの1週間にわたり実施した。
旅順口区は、清朝時代に要塞化され、地政学的に重要な軍事拠点として位置づけられてきた。1894年の日清戦争後、日本が一時的にこの地を占領したが、その後、列強間の勢力争いによりロシアの租借地となった。しかし、1904年~1905年の日露戦争を経て、日本が再びこの地域を支配し、軍事要塞としてさらに強化された。同時に、旅順監獄をはじめとする施設が設置され、政治犯や反体制派の収容に利用された。
現在、旅順口区は歴史的な軍事遺構や観光地として注目されており、戦争や植民地支配の記憶を伝える重要な場となっている。日本統治時代の建築物や遺跡も多く保存されており、その歴史的価値が高い。
さらに、この地域は大韓帝国の愛国義士・安重根にまつわる歴史的な場所としても知られている。彼は1909年に日本の初代内閣総理大臣であった伊藤博文を暗殺し、その後、関東高等裁判所で裁判にかけられ、旅順監獄に収監された。この監獄は現在、旅順日露監獄旧址博物館として公開されている。
本調査では、安重根に関連する記念施設の展示内容や保存状態を考察し、韓国人観光客がこれらの施設をどの程度訪問し、どのように受け止めているかを探った。また、安重根が著した『東洋平和論』が現代における平和構築や地域協力にどのように寄与できるかについても検討した。これにより、安重根の歴史的意義と思想がどのように評価されるべきかを明らかにし、地域の平和と協力の促進に資するための手がかりを提供することを目指している。
本調査は予備調査として実施したため、できるだけ多くの場所を訪れることを目指した。調査範囲は、大連市の最南端に位置する大連市旅順口区から、市内中心部の大連市街、さらに大連経済開発区に含まれる金州区まで、南から北まで幅広く巡った。

大連市旅順口区では、主に歴史的な軍事遺構や観光地を中心に調査を行い、具体的には、旅順日露監獄旧址博物館や関東高等裁判所、旅順博物館など、地域の歴史に深く関わる施設を訪問した。また、白玉塔や旅順口港といったところも巡り、さらに旅順口区の最南端に位置する黄海と渤海の境界線にも足を運んできた。

また、大連市金州区では、現地での観察調査は行わず、インタビュー調査を中心に実施した。具体的には、大連大学歴史学科の刘秉虎教授と、大連安重根研究学会の会長である金光哲氏にインタビューを行い、安重根義士の歴史的意義に対する地域社会での評価や、彼の思想の現代的な解釈について専門的な見解を伺った。
さらに、大連市は、単なる観光地を超え、多文化共生の歴史的モデルの役割を果たしている都市である。19世紀末から20世紀初頭にかけてロシアと日本の統治下に置かれ、その後も多くの外国文化が流入したため、現在の建築様式や都市計画、生活文化に影響が色濃く残っている。その影響がどのように表れているのかを観察ため、大連市の市街地も巡り、観察を行った。
調査方法は、次の3つのアプローチで構成されている。
(1) 観察調査:歴史的記念館や博物館を訪問し、安重根に関連する展示品や展示内容を確認した。また、来訪者の反応を観察し、さらに大連市と旅順の風土人情についても調査を行った。過去の歴史が現在の生活文化や都市の風景にどのように影響を与えているかも確認した。
(2) インタビュー調査:大連大学歴史学科の刘秉虎教授、大連安重根研究学会の会長・金光哲氏、および関東高等裁判所の館長・郑春梅氏にインタビューを行った。韓国人観光客の訪問状況とその傾向、安重根に関する記念館の設立背景、安重根研究学会の現在の活動内容、および地域社会との関わりについて意見を伺った。
(3) 文献調査:当地で入手した書籍をもとに、安重根が受けた11次の審問の記録を読み、彼の裁判の過程を了解した。また、安重根の自伝『安応七歴史』を通じて、当時の彼の監獄生活の詳細を把握した。
旅順監獄は、ロシア帝国によって1902年に建設が始まり、1907年に完成した。施設内には18棟の病棟と275室の監房、15棟の工場、1棟の教誨堂があり、敷地面積は2.6万平方メートルに及んでいる。外壁は高さ4メートル、厚さ725ミリの赤レンガで築かれ、最大で2000人以上を収容できた[旅顺日俄监狱旧址博物馆,2024]。
1971年7月に旅順日露監獄旧址博物館として開設され、1988年には国務院から「全国重点文物保護単位」に指定され、2005年には中央宣伝部から「全国愛国主義教育示範基地」として認定された。さらに、2009年には国防教育委員会から「国家級国防教育示範基地」に指定され、2013年4月25日からは博物館が全面的に入場無料で公開され、年間40万人以上の来館者を集めている。


展示品についての解釈は、主に中国語、韓国語、英語の三か国語で記載されており、安重根が収監された監房の説明には日本語も併記されていた。それぞれの言語で書かれている内容はほぼ同一であり、特に意味や表現において顕著な違いは見られなかった。特に印象的だったのは、刘秉虎教授とのインタビューで、展示品の韓国語の解釈が韓国人によって執筆されたものであるという点だった。




安重根の監房
また、旅順日露監獄旧址博物館には2009年に設立された「国际战士在旅顺」(旅順における国際的な義士たち)という展示会もあり、600㎡の広さにわたる展示スペースでは、安重根をはじめとする多くの韓国独立運動家(申彩浩、李会荣、崔兴植、柳相根)が紹介され、彼らの業績や当時の朝鮮における抗日運動の歴史が詳しく展示されていた。



この展示会は、もともと韓国の旅順殉国記念財団(現・世界平和統一家庭連合)は10年前から安重根単独の展示会を開催したいと望んでいたが、刘秉虎教授とのインタビューで、中国政府がその申請を受理しなかったことが分かった。これは、中国で安重根一人に焦点を当てた展示会を大規模に開催することが、政治的・歴史的なバランスの観点から難しいと判断されたためである。そのため、刘秉虎教授は、「安重根展示会」ではなく、「国际战士在旅顺」(旅順における国際的な義士たち)というテーマで展示を企画することにした。これにより、安重根に加え、同じ時代に戦った他国の義士たちにも焦点を当て、歴史的な視点を広げることで、中国政府の理解と協力を得られるよう工夫したのである。展示会の始まりに周恩来の言葉が引用されたのも、その意図を反映している。
また、中国政府が慎重な態度を取った理由の一つとして、韓国の旅順殉国記念財団に統一教会の関係者が含まれていることが挙げられる。安重根記念館の設立および運営において、統一教会の影響が及んでいるとの指摘もあり、中国政府としてはその点に懸念を抱いていた。こうした状況は、政治的・宗教的な微妙なバランスを要するため、政府にとって取り扱いが難しい問題となっていた。
関東高等裁判所は、旅順日露監獄旧址博物館と隣接する場所に位置しているが、記念館としての公開時期が旅順日露監獄旧址博物館よりも遅い。さらに、同裁判所は「全国重点文物保護単位」に指定されず、「省級文物保護単位」にとどまっている。

関東高等裁判所は、1906年に関東都督府の設置とともに設立された。その後、2006年5月に博物館として公開され、省級文物保護単位に指定された。しかし、館長の郑春梅氏によると、旅順には多くの歴史記念文物が存在するため、裁判所は省級文物保護単位に指定されてはいるものの、経済的な運営が難しい状況にあるという。そのため、入場料が無料の旅順監獄とは異なり、関東高等裁判所では15元(約300円)の入場料を設定している。さらに、運営を維持するためには、韓国の旅順殉国記念財団、大連韓人会、および韓国国家報勲部(국가보훈처)からの支援を受けていると述べている。
また、ここで展示されている資料は、すべて中国語、韓国語、日本語、英語の4か国語で解釈が提供されていた。これらの解釈は、近代史の専門家によって執筆されたものであり、その内容は刘秉虎教授が最終確認を行ったものである。さらに、言語間で特に意味の異なる部分は見受けられなかった。
まず、自伝『安応七歴史』から見ると、最初の監獄生活について次のように記されている。
「…典獄長の栗原氏と看守長の中村氏は、いつも私に特別な配慮をしてくれた。毎週一度の入浴が許され、毎日午前と午後にそれぞれ一度、私を牢から事務室に連れ出し、各国の高級タバコや洋菓子を渡してくれた。さらに、お茶を振る舞い、満腹になるまで食事を提供してくれた。朝・昼・晩の三食は最高品質の白米で、上質な下着と4枚の布団も与えられた。毎日、みかん、リンゴ、ナシなどの果物が何度も届けられ、牛乳も1本ずつ提供された。これは、園木氏が特別に配慮してくれたものだった。また、溝渊検察官は、鶏肉やタバコをわざわざ買ってくれた。これほどの優遇を受けたことに、私は心から感謝しており、言葉で尽くすことができない…」
このように、安重根は監獄内で苦しむこともなく、むしろ非常に手厚い待遇を受けていたことがわかる。その後、彼は死刑判決を受け、東洋平和論や評論の執筆を始めた。この期間中に、数百枚の書法作品を書き、それらを裁判所や監獄の役人に贈った。
「…そこで、私は『東洋平和論』の執筆を始めた。当時、裁判所や監獄の役人たちは、私の書を記念として残したいと考え、数百枚の絹の紙を用意して、私に題字を書いてほしいと頼んできた。断ることもできず、自分の拙い筆跡を恥じることなく、毎日数時間にわたって書き続けた…」
「…囚われの身となってからは、青木部長と看守の田中氏という、特に親しい二人の友人ができた。青木氏は温厚で公正な性格の持ち主で、田中氏は韓国語を話すことができた。彼らは細やかな配慮で私を支え、二人との間には兄弟のような絆が生まれた…」
このように、安重根が収監されていた期間は、厳しい拷問などを受けることはなく、むしろ身体的にも精神的にも安定した生活を送っていたといえる。途中、検察官の態度が突然変化したり、死刑執行の時期が繰り上げられるといった事象が見られたものの、当時の日本政府の政策とは別に、旅順における日本人たちは安重根との人間的な関係を構築しようと努めていた。彼らは、単なる収監者と監視者という関係を超え、相互理解に基づく人間的な交流を図っていたことが示唆される。
そうなると、当時の旅順における日本人たちが、なぜ安重根に対してこれほど手厚い待遇を与えたのかが重要な疑問として浮かび上がる。また、事件の詳細に立ち戻ると、伊藤博文暗殺事件には安重根以外にも3人の共犯者が存在した。禹徳淳は殺人幇助および殺人予備罪により懲役3年の判決を受け、曹道先と劉東夏は幇助罪により懲役1年6ヶ月の刑に処された。
しかし、安重根の取り調べ記録によれば、これら3人は事件に深く関与していなかったことが示されている。劉東夏と曹道先は、ロシア語ができるために通訳として連れてこられただけであり、禹徳淳は安重根が彼の信頼性を試すために参加させたにすぎなかった。さらに、検察官から「禹徳淳を信頼できるか」と尋ねられた際、安重根は「そうは思わない」と答えている[郭富纯, 2003]。
また、劉東夏は若年であったため、取り調べ中に怯え、混乱して嘘やでたらめを言うことさえあったとされる。この人々の中で、安重根は日本人に特に学識が深く、志が大きい人物として映ったのだろうか。
さらに考えてみると、旅順の日本人たちが伊藤博文を暗殺した安重根を尊敬した理由の一つは、彼が単に「大韓帝国」の独立を求めただけでなく、東洋全体の平和を提唱していたことにあるのではないだろうか。彼が敵国である日本の平和までも願ったその思想は、当時の日本人に強い印象を与えたと考えられる。そのため、旅順の日本人たちは、安重根を単なる犯罪者としてではなく、信念と理想を持った人物として尊重し、手厚い待遇を与えたのではないか。また、安重根自身も監獄生活を通じて、すべての日本人が悪ではないことを実感し、そこで西洋文化にも触れる機会も得た。こうした環境の中で、彼は「東洋平和論」を執筆することができたのだろう。今、私たちが恐れるような「監獄」で、当時の安重根にとっても、旅順の日本人にとっても、むしろ新たな出会いや思想を深める場となった可能性があると思われる。
安重根を「テロリスト」と呼ぶか、それとも「英雄」と評価するかは、彼の行動を単純な二元論で捉えることは難しい。安重根を「テロリスト」か「英雄」とする二項対立の枠組みでは、彼の本質を見落としてしまうだろう。むしろ、彼の思想と行動の核心には、東洋全体の平和を願う強い理想があったことが見逃せない。旅順での彼の生活や日本人との交流を振り返ると、彼の行動を評価する際には、「平和」という文脈が不可欠であるといえる。
大連安重根研究学会では、安重根の平和思想をナショナリズムから切り離して捉えることを重視していると、刘秉虎教授は述べている。彼らは、安重根の思想を韓国の民族主義に限定せず、東洋全体の平和に貢献する普遍的な価値として評価している。そのため、学会では彼を「安重根先生」と呼んでいるという。
さらに、安重根を単に歴史的な人物として学ぶことを超えて、彼の平和思想を空気のように日々の生活に取り入れることが、学会の最大の目標であると刘秉虎教授は述べている。これは、安重根の理念を単なる過去の教訓としてではなく、現代社会に生かし続けることを目指していることを意味している。
日中韓朝の四か国の関係が絶えず軋轢を引き起こしている原因について、金光哲会長は、「それぞれの国が異なる価値観を持ち、共通点ではなく相違点を探そうとする姿勢が影響しているのではないか」と述べた。学会では、こうした状況を改善するために、四か国間の共通点を見つけ出すことを重視し、さまざまな取り組みを準備しているという。
その一環として、大連市を「平和シティー」として申請する計画も進められている。大連市は、約50年間にわたる植民地支配を経験した背景を持ち、戦争の影響から現在の暮らしに至るまで、大連市の歴史的経験を活かし、平和の理念を地域社会に根付かせようとしている。旅順での平和フォーラムの開催も計画されており、SNSで「金酱学社」および「神秘东方平和收藏馆」というアカウントも運営し、平和の啓発活動に取り組んでいる。「金酱学社」では、発酵食品が日中韓朝の四か国の食文化に欠かせないものであることを強調し、共通の文化的基盤を通じて相互理解を促進することを目指している。一方、「神秘东方平和收藏馆」は、展示物には陶器、石器、玉器、さらには木器など、多岐にわたる伝統的な工芸品を紹介している。このアカウントの活動は、単なるアート展示にとどまらず、過去の歴史遺産を通じて、共通の文化的遺産を発見・共有し、地域間の相互理解を促進することを目指している。
今回の予備調査を通じて、大連市について全体的な情報を把握することができたと考える。今後は、この予備調査で得た成果を基に、19世紀末から20世紀初頭にかけての日本による旅順の歴史についてさらに学び、当時の状況を可能な限り再現することを目指す。これにより、彼の評価を見直し、単なるナショナリズムの枠を超えた平和の象徴として位置づけることが課題となる。
郭富纯. 旅顺日俄监狱实录[J]. (No Title), 2003.
旅顺日俄监狱旧址博物馆,旅顺日俄监狱旧址博物馆简介
http://wenda.bendibao.com/tour/20191031/91210.shtm, 2024年10月20日